一湊湾(矢筈岬・屋久島電工施設・西郷隆盛上陸碑)
概要
矢筈岬
・矢筈は、踏み台を使わずに掛軸を掛けるための棒状の道具で、掛け棹(掛物棹、掛棹)が本来の名称である。
・矢筈岬は矢筈岳の山容がこの矢筈から来ていることによる。
屋久島電工施設
・(屋久島電工の)工場が宮之浦に建設されたのは、一湊港に近く、70haの敷地が得られたから。
・一湊は宮之浦、安房などの河口港と違って、しゅんせつの必要が無く、水深は6〜18mある。
・矢筈岬が900mも海に突出しているため、風の強い日でも岬のどちらか一方は接岸できるのが有利。
・しかし、一港には必要な敷地が無かったので、宮之浦に(屋久島電工の)工場が建設されることになった。
・一湊は矢筈岬が防波堤の役割を果たしている天然の良港であった。
・原料、製品の荷役のために築港工事により2000トン船舶着岸可能な桟橋が完成。
・昭和34年7月着工、35年竣工、工費約2億円。
・桟橋(高さ8m、幅6m、長さ150m)。
・クレーンで荷揚げされた原料はベルトコンベアで倉庫に収納し、製品はトラックで桟橋突端へ送り、クレーンで船積みできるようになった。
・冬季の季節風の影響を避けるため、矢筈岬の反対側の元浦港新築工事も行われ、500トン級船舶が接岸可能となった。
西郷隆盛上陸碑
・文久二年(1862)2回目の島流し(徳之島→沖永良部島)になり、村田新八と別々の船で6月18日〜26日まで滞在。
・元治元年(1864)赦免され、薩摩藩の密貿易の取り締まり役を委任される。
・後の西南戦争五番隊長、池上四郎を屋久島へ派遣。
・一湊東側入口の三叉路に黒色石組みの記念碑がある。
・石は桜島の溶岩と屋久島の雑石を合わせたもの。
・桜島の溶岩は、一湊漁港の埋め立てに使用した残石と思われる。
・溶岩の大きな面に「西郷隆盛上陸の碑」と記してある。
・島津久光を待たず京都・大阪へ登ったことで久光から奄美大島への遠島を言い渡された。
・山川港から西郷は徳之島へ、村田新八は喜界島へ別々の船で向った。
・この航海の様子が、村田新八の「宇留満乃日記」に描かれている。
・悪天候により西郷、村田の乗る船は口永良部へは入港できず、相前後して一湊へ入港する。
・天候不良のため、西郷・村田は一湊に26日間滞在した。
【文献・資料】
・上屋久島郷土誌
・一湊百年
・一湊街歩き資料
・ウイキペディア