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一湊測候所(松山遺跡・一湊城跡)

概要

一湊測候所跡

・昭和12年(1937)10月開設。
・昭和50年(1975)4月に屋久島空港へ移転。
・松山の高台から川越しに一湊集落を見下ろした白いコンクリート造り。
・大きな無線塔2基に守られていた。
・外の広い庭に緑の丸い芝張りの露場があり、百葉箱や雨量計があった。
・周囲に砂浜があり台形状になっていた。
・子供達は亀の産卵期になると卵を掘り出し、頂上から転がして遊んでいた。
・太平洋戦争中の昭和18年に敵の飛行機の来襲に備えて、白いタキシードの塔は黒いペンキで塗られた。
・建物には機銃痕があり、現在はセメントで埋められている。
・昭和20年4月18日に一湊の町は、B-29による投下弾60発の空襲で17名の犠牲者が出て、山中に疎開を余儀なくされた。
・屋久島測候所前に苦難の坂(雨量の多い日には滝になる)がある。
・この坂はその昔、平家の落人が逃げあがった坂だという。

一湊城

・天文末年(1550年代)以降に種子島氏が築城した城郭と思われる。
・永禄9年(1566)禰寝重長が軍勢を率いて竹島より一湊を襲った。
・種子島方が材城していたが、禰寝勢に敗れている。
・禰寝勢はその後すぐに引き上げたと思われ、一時的に占領したものである。
・1543〜1573まで種子島氏と禰寝氏で奪い合う。
・永禄9年(1566)禰寝重長が軍勢と率い竹島より一湊を襲った。
・種子島方が在城していたが、禰寝勢に敗れている。
・禰寝勢はその後直ぐ引き上げており、一時的に占領したものである。
・天分末年以降(1550年代)に、種子島氏が築城した城郭と思われる。

一湊松山遺跡

・一湊松山にある。
・砂丘大地である。
・かつて測候所があった。
・現在、宅地、畑地などがあるため、大分撹乱されていが、抱合層は厚く部分的に残存しているようである。
・昭和55年の調査以前には、縄文前期の曽畑式、後期の市来式・一湊式、弥生後期の土器が出土していたが、縄文後期が主体となっているとされていた。
・石器類は磨製石斧、打製石斧、石弾、石皿、石鋤、扁平刃石斧、黒曜石などが出土している。
・その他、獣骨、魚骨鳥骨、亀甲、炭化したシャリンバイの種子などが出土している。
・S26-27小規模調査実施。
・S32-33 55 本格的調査実施。

【文献・資料】
・一湊町歩き資料
・上屋久郷土誌

写真

全景

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一湊測候所全景

門柱

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屋久島測候所門柱

全景

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一湊測候所門柱から全景

ゲートボール場

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ゲートボール場グランウンド

全景

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一湊測候所全景

玄関看板

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玄関看板

津波注意看板

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津波注意看板(14m)

銃撃の跡

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銃撃の跡を埋めた壁面

銃撃の跡

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銃撃の跡を埋めた壁面建物も

銃撃の跡

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銃撃の跡を埋めた壁面アップ

銃撃の跡

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銃撃の跡を埋めた別の壁面

銃撃の跡

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銃撃の跡を埋めた壁面アップ

銃撃の跡

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銃撃の跡を埋めた壁面アップ

銃撃の跡

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一湊松山遺跡案内看板

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